私の両親は昔からすごく仲が良く、小さいころは両親みたいな夫婦になるのが夢でした。
ですが 大学進学を機に実家を出た私は知らなかったのです。いつの間にか両親の仲が険悪になっていたことを…
一時は本当に離婚するのかとひやひやしましたが、離婚危機を乗り越え、今は穏やかに暮らしています。
両親がなぜ離婚危機に陥り、どのようにして乗り越えたのかを紹介します。
目 次
姑の在宅介護がきっかけで夫婦仲が険悪に
私の両親に離婚の危機が訪れたのは、母が50歳・父が57歳ごろのことでした。きっかけは祖母(母からすると姑)の介護です。
数年前から足腰が弱くなり、車いす生活だった祖母は、だんだんと認知症が進み、当時はほぼ寝たきりになっていました。
介護度が高いにもかかわらず、介護施設はどこも満杯だったので在宅介護をしていました。
我が家は農家で、母は農家の仕事と家事、子育てをすべて行っていたのです。
子育てはほとんど終わっていたものの、仕事、家事に加えて介護の負担がすべて母にのしかかっていました。
父は、介護は当然母がやるものと思っていたようです。
下の世話もあったことから「息子がやるよりは同性である嫁のほうが…」という思いがあったようですが、
母はむしろ「自分の母親なんだから自分でやれ!」と思っていたようです。
また祖母は認知症で子供返りをするようになっており、ダダをこねたり、仕事中でも夜中でも関係なく母を呼びつけたりしていたので、母は心身ともに疲れ果てていました。
そんな中、気晴らしで母が飲み会に出かけたところ…
「遅かったね、こっちはばあさんのお世話で大変だったわ」と父が嫌味を言ったことで母は不満が爆発。
「数時間世話しただけで偉そうにするな!何もかもこっちに押し付けといてその言い方は何なの!!」とぶち切れ、
父とは最低限の会話しかしないという冷戦状態になってしまいました。
母は「離婚したい」とはっきり言ってはいませんでしたが、当時高校生でまだ家にいた妹は「家の空気がやばかった。離婚したらどっちについていこうか考えてた」そうです。
姑の介護以外にもあった離婚危機の原因
両親に訪れた離婚危機の一番の原因は、やはり祖母の在宅介護のことです。
「まーくん(父)が当然のように、ばあさんの世話は私がするものと決めつけとったのが本当に腹が立った」と言ってました。
やるやらない・できるできないではなく、そもそも父は何もやろうとしないし、母の負担を考えてもくれなかったのが我慢ならなかったようです。
ですが 両親が離婚の危機に陥ったのは、祖母の介護だけが原因ではなかったのです。
肉体的と精神的な疲れが重なった
肉体的に疲れがたまっていたのも、イライラにつながっていたようです。
元々仕事と家事で朝から晩まで働きっぱなしの母でした。そこへ介護の負担が重なり、肉体的疲労と精神的疲労が追加。
特に祖母の子供返りがしんどかったようです。
姑としてはいい人だったという祖母に、疲労からあたってしまう自分が嫌で自己嫌悪がつらかったとも言ってました。
更年期障害の影響
離婚危機となった時期は母が50歳のころ。
ちょうど更年期障害の影響もあって、イライラの度合いや感情のアップダウンがそれまでの母とはまるで違っていました。
子育てがひと段落するタイミング
母から一連の冷戦状態を聞いたのは、私の結婚式準備で衣装合わせに同行してもらった時でした。
奇しくもその時期に、長女である私の結婚、弟の就職、妹の大学受験が重なって、一度に子供たちが巣立っていくことになっていました(といっても、私と弟は大学から一人暮らしをしていたので、家を出るのは妹一人でしたが)。
厳密には妹の学費問題はあったのでしょうが、大学進学で一人暮らしをすることで、実家から子供がいなくなるタイミングだったというのもあり、離婚が脳裏に浮かんだのだと思います。
離婚しても自立できる見込みがあった
母は農家の嫁として働いていましたが、保育士資格を持っているため離婚しても自立できるという見込みがありました。
経済的に自立できないことを理由に離婚できない人は多いと思いますが、母の場合その問題はなかったということですね。
どのようにして離婚危機を乗り越えたのか
しばらく冷戦状態だった両親ですが、1年くらいしたら元の穏やかな関係に戻っていました。
どうやって夫婦仲を修復したのかを聞いたところ、次のような方法でお互い歩み寄ったと教えてくれました。
父が介護を手伝うようになった
母の怒りが爆発して冷戦状態になったとき、父はおそらく危機感を持ったのでしょう。
父は家事ができないうえ、母と別れたら折り合いの良くない祖父と2人きりになってしまいます。
しかも我が家は農家なので、母がいなくなると働き手がいなくなってしまいます。
「離婚したらまずい!」と、父は介護を手伝うようになりました。
祖母を車いすからベッドに移動するといった力仕事は父の仕事となり、下の世話も積極的に行うようになったそうです。
「楽になったことよりも、介護の負担や辛さをわかってくれたのがうれしかった」と母は言っていました。
在宅介護の負担を減らした
基本的に農家には休みがありません。その中で在宅介護を行うのはそもそも無理があったようです。
久々に実家に帰った時には、祖母の介護はほとんど外注されていました。
平日と週末の昼間は特別養護老人ホームを利用して、自宅で祖母の世話をするのは週末の夜間のみになっていました。
「顔を合わせる時間が少なくなって、たまのわがままも聞けるようになった」と母のイライラは軽減している様子でした。
母が独り身の寂しさを想像した
冷戦状態のときに、母の友人がご主人を亡くされたんです。
その人から話を聞くことで、独り身の寂しさ、むなしさを想像して、父を話し相手としていてくれるだけありがたい存在だと思うようになったと話してくれました。
離婚危機を乗り越えてから気を付けていること
離婚の危機を乗り越えてから、再び険悪にならないために気を付けていることがあるそうです。
祖父の介護のために備えている
介護は肉体的にも精神的にも負担になるということがわかったので、二人で話し合って、まだ健在な祖父の介護にも早めに備えるようになったそうです。
そのために貯金したり、父の兄弟にも費用を分担してもらうよう相談したりしたことも意味があったと言ってました。
ありがとうを言うようにしている
基本的なことですが感謝の気持ちを言葉にすることは大切で、より意識して「ありがとう」を言うようになったそうです。
そう考えて見てみると、父が母の作ったご飯を「おいしい!」と言って食べている場面が増えました。
きっとご飯を作ってくれることが当たり前ではないことに父は気づいたんでしょうね。
母は「まーくん(父)は私よりきっと先に死ぬで、それからやりたいことやるわ(笑)」と言っていましたが、
そんなブラックジョークを言い合えるくらいの夫婦仲に戻ってくれたんだなと娘としてはうれしく思いました。
この記事を書いた人
みしまず
4歳と0歳の息子を育てている兼業主婦。実家は車で1時間ほどの距離で、月に2回ほど帰省している。両親のような夫婦になるのが目標。
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